水田
7月の三田の水田は、小さい子供でもボディコンのお姉さんでもやくざのおじさんでも目を奪われる景色をもっている。
川
価値観というのは変わっていて、子供のころにはみんな大差ないが、大人になればなるほど個人個人で偏ってくる。しかも一度固まってしまった価値観は、自分でそれを疑うことがほとんどないので、なかなか修正されることはない。
そういう人々が一つの会社なりで働いていると、ひょんなところで人の価値観に驚かされることがある。そのときにその人の考え方の根底に在るものを聞いておくことは、人生において大いに参考になる。逆に、自分の価値観や常識といったたぐいのものを相手にいくら押し付けようとしてもそれはうまくいかない。自分の考え方の芯をしっかりもつことは重要だが、別の価値観をもつ人に対する場合は、バランスが、重要なように思う。
川の流れは一見いつも同じでつまらないように見えるが、よくよく見るとその時々でまったく同じ流れになっていることは一瞬たりとも無いことがわかる。人生も、そういうものだと感じる。
道案内機
自分で割り出した温泉へまでの裏道だったが、ナビのはじき出したルートはそれよりもはるかに効率的で良い道だった。ナビおそるべし。
毒無しでは生きられない
「ここには人工音がまったくなく、木々のざわめきだけが聞こえます。すばらしいでしょう」大学の研究室の老教授は、名峰白山の中腹でこんなことを言っていたと思う。
この時代、人工的なものが存在しない場所を見つけるのは至難の業だ。誰しもが自由に接続可能な携帯電話を身につけ、カーナビのついた自動車で移動し、家ではパソコンで情報を得る。日本という国では全ての人にとって、それが当たり前となっているといっても過言ではないだろう。
しかし何かに頼りすぎると見失うものもきっとある。メディアの偏りは感性を鈍らせ、文字情報だけのやり取りはコミュニケーションの幅を狭める。そして最も恐ろしいことは、全てが当たり前となってしまったとき、それらのものを見失っていることにすら自身が気付かないことだ。
腐海が人にとって毒なのではなく、人が毒無しでは生きられない体になってしまっていることに気付かないのと同様に。