本当にすばらしいもの

大雨の秋葉原は、台風が来るということもあって大きな店以外はもうシャッターを閉めているところも多く、人も少なめだった。ぼんやりとした記憶をたどりながらしばらく歩いて、ニュー秋葉原センターという電光看板を見つけた。

一番奥にその真空管アンプ屋はあった。ネットの通販ページでは多種多様なカスタムトランスを扱っていたので、わりと大きい店を想像していたが、ドアも窓も無い普通の露店だった。テーブルには何十機という真空管アンプが置いてあり、壁は小さな箱と真空管でいっぱいだった。そして奥には巨大なスピーカーと抽選箱くらいの小さなスピーカーがペアで置かれていて、大きなスピーカーからは真空管アンプな感じのちょっと丸みを帯びたジャズピアノが流れ出していた。

経験上、音の深みとか、心地よさというのは数秒聞いただけでは判断できない。俺はしばらく巨大スピーカーから流れる聴き疲れのしないだろう音を聞いていた。数分経って、店の主人が自作と完成品のどちらを探しているかとたずねてきた。俺は自分で作った最初のキットが、ここの真空管アンプの入門キットだったことを伝えると、他のいくつかのアンプを俺の部屋のスピーカーと同じ系統の小型スピーカーで聴かせてもらえることになった。店の主人は気さくで、若い自分にも丁寧に接してくれる人だった。

そして3機目のアンプに切り替えたとき、音に驚愕した。そのアンプの音は、真空管アンプの独特の丸みはあるのに音が曇っていなかった。3秒聞いてそれはわかった。トランジスタやデジタルアンプを越えるリアリティというのはこういう感じなのかと聞き入っていた。

その曲を聴いている間に、店の前で足を止めた人が3人はいたと思う。自分も音楽に聞き入っていたので正確に何人だったか良く覚えていない。この台風が近づく中、他の露店はほとんどシャッターを下ろしているにもかかわらず、通りがかったオーディオに詳しそうなおじさんや、女子高生や、家族連れが何も言わずに立ち止まっていた。ごみごみした秋葉原のガード下の一角に、音楽によって不思議な空間ができた。これはいわゆるひとつの、小さな奇蹟を体験できたのではないかと俺は思った。

そういうわけでその真空管アンプのキットを購入して、帰りの荷物が3.6キロ増加した。この旅行カバンは荷物が重いと右肩にあざができる。大した問題ではないが。そして俺を乗せた新幹線は台風の進路と逆向きに発進した。