ゲームづくりとは

わたしたちは なんのために ゲームをつくっているのでしょう?

                                                                                                                                                • -

楽しいから。と言う答えが一般的なように思う。何が楽しいかは人それぞれで、ゲーム作りそのものを楽しむ人もいれば、作品発表後の反響を楽しむ人もいるだろうし、作ったゲームを自分でプレイすることで悦楽を感じる人もいるだろう。
しかし、これまた幾度かこの日記で書いたこともあるように、市販のゲームは製作作業量が格段に上がった。美麗なグラフィックや生オーケストラ、壮大なシナリオとアクションにさらにボイスを加えるなど、個人製作では不可能と言える時代。
そこで少し考えておかねばならないのが、昨日の切って捨て切って捨て、という話だ。つまりプレイヤー側は山のような品数の中からプレイする好きなゲームを選べるのであって、たとえばツクールで作った個人ゲームが面白くなければ、ばっさりやめてもOKなわけであります。
そんな中、ツクールでハイクオリティを目指すことに、意味はあるのか?また、ツクールでのゲーム製作を議論することに、どんな意味があるのか?と、一瞬頭をよぎる。

                                                                                                                                                • -

「ツクールは終わった」という人がいる。その多くは、市販ゲームと比較してツクール作品が見劣りすることから来ているのかもしれない。しかし、ここが重要だが、終わったかどうかを決めるのは個々人であって、楽しみ方は個人技でどうとでもなる。
ひとつの道は、ツクールで実現可能なことを追求すること。それに没頭し、もしくはそれに失望して自らツールを作り出す人も知り合いに少なくない。まさにツクール自体をひとつのゲームとしている。
あとは純粋に自分の世界を作ることの楽しみ、それを公開してプレイすることの楽しみ。幸い、いくら新しい(すばらしいクオリティの)ゲームが出ようとも、根本に流れるシステムの面白さというのは、ツクールで十分表現できる領域にあるように思えてならない。今でもマリオワールドをプレイすると、確かにグラフィックは劣るが、十分に面白い。この時点で、ひとつの形は完成されていて、あとはアイデア次第でいろいろなゲームが作れるということだ。どこぞのコンテストでも、アイデア作品がよく入選していますね。短編でアイデアを競うことも、この流れだと思います。一時期盛り上がりましたね。
だが私はこれ(この姿勢)をあまりよしとしない。斬新なアイデアで作られたゲームは確かにすごい。しかし斬新さばかり追い求めても、どこかで行き詰る。人(ほかのツクール作者)が作ったことの無いものを、より新しいアイデアを、それがオリジナリティ――そんな流れがある気がしてならない。
いくつかの作品をプレイした中で、製作したデータが隠しファイルになっていたり、ツクールでオープン後に最初のマップに注意書きがあるものがあった。すなわち、ほかの作者に製作データを盗まれまいとする意図だ。確かに、こうしておけば安全なように思うが。

                                                                                                                                                • -

随分と極端な話になってしまいましたが、私の思うところは次のようなものです。
斬新さを求めずとも、思い描いた世界を丁寧に、自分がプレイしても面白く、そして何にも惑わされない意思でつくれば、きっと面白いものができると思う。それは市販のものよりクオリティが低く、巷では酷評されるものかもしれないが、小細工無しでも努力で芯を貫いた作品は、プレイヤーにその熱いものがきっと伝わると思う。ツクールの終わりが何だ、中のシステムを見たければどうぞ見ると良い。ゲームの根本となる土台はずっと昔に整っており、誰でも表現できる。パクリと言われてもいい、自分の完成された世界に自信があるならば、それらのことは大した問題ではなくなるような気がしてならないのである。

何かそんな作品を作っていきたいなあと思います。

次の日の6:37