地球少女を見て

昨年の9月、標高2703メートルの山に登った。生死の境を彷徨ったことも書いたが、その時の様々な思い出の中にこんなものがある。
登り始めて1時間ほど経った頃、今は退官された恩師が立ち止まり、このようなことを言った。
”ここは人工的な音が一切無い、自然の音だけが聴こえる”
確かに、そうだった。下界と離れること1000メートル以上、いくつかの鳥の鳴き声と、風と、草木の揺らぐ音だけが聴こえた。毎年欠かさずこの山を登っていれば、何度も遭遇した場面だろう。定年を来年に迎え、工学のある分野でのベテランであるこの教授にとって、この一時はどのように感じ取られたのだろうか。
 
5月のある日、就職面接のため尼崎に赴いた。全国有数の工業地帯、駅を出ると道は狭く、自転車が無秩序に停められていた。少し歩き、立体交差する線路の下を抜けると、物凄く甘い匂いがする。看板を見るとMORINAGAの文字。ああ、これはハイチュウの匂いだ懐かしいなあ。こんなところで作られていたのか。しかし凄い匂いだ。周りの鉄や油の匂いと混じり、なんとも言えないことになっていた。もし勤務地がここになったら、毎日こんな道を通わねばならないのか、と少し不安になった。
しばらく、面接会場である巨大な工場敷地の横を歩いた。有刺鉄線が痛々しい。進入は無理そうだ。その周囲をご丁寧に溝というには大きめの小川が流れていた。二重トラップか、それとも環境に配慮したものか。
その小川に、私の地元の大きな川にもよくいるゴイサギというサギがいた。周りにスズメなどもいた。おお、工業地帯のど真ん中にも風情があることよ。鳥よ、強く生きろ、などと思った。この鳥は面接が終わった帰りにも、また見かけた。
 
鳥の鳴き声と、風と、草木の揺らぐ音だけが聴こえた。しかし、それよりも、人工の音が聴こえないことを貴重な体験と思うべきだったのかもしれないと考えることがある。今この場でも、パソコンの音、扇風機の音、リビングから伝わる冷蔵庫の音、近くの会社の何か機械の音、信号の音、車の走る音……周囲は人工の音で囲まれている。慣れてしまってこれを煩いと感じるのは寝るときくらいかもしれないが、それら人工の音が聴こえなくなることなどほとんど無いのではないだろうか。無音室に入れば、とか耳栓をすれば、ということではない。もともと私たちは自然の中で生きてきた。それをすっかり忘れてしまった世界にいる。
さあ、こんな馬鹿な話があるだろうか。ハイチュウと油の混じった匂いの中で、有刺鉄線の下にいるゴイサギに風情があるだろうか。私たち人間だけでなく、鳥や他の動物までも変わってしまった世界。それは本来いるはずのない場所にいる動物。同じ動物である人間も例外ではない。

自分に何が出来るとか出来ないとかそういうことは後回しにして、この麻痺には個々人が時々気付き、考える必要があると思う。工学を携わるものなら、人工のものを生み出すものとしてなおさらのこと。そのような一面を、あの恩師は伝えようとしたのではないかと、ふと思わせる作品だった。地球少女アルジュナ

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