人工歌声

太鼓の達人というゲームをご存知だろうか。高校のころにゲームセンターにあらわれて、今でもたまにプレイする。ぞくに音ゲーとよばれる類のこのゲームを、なぜ飽きずに遊んでいられるのだろうと考えることがある。

人間というのは結構適当だ。体調が悪いときは何をやってもうまくいかないし、機嫌がよいときは普段やらないことをやったりする。そういう人間同士がコミュニケーションをとろうとすると、あるときはYESだったものがNOになったり、同じ言葉でも別の意味にとらえられたりする。厄介なことだ。

太鼓の達人は、自分の体調や心境によらず、たたいたタイミングに応じて優・可・不可の判定をただただ返してくる。(たまに調整の悪い筐体もあるが)その応答は機械的であって、間違いは無く、自分を裏切ることは無いので安心する。自分自身がゆがんでしまってよくわからなくなっても、機械は自分の状態を正確に返してくれるから、多分それで安心する。

しかし「機械的」という言葉にはあまり良いイメージはないように思う。おそらくそれは人間らしくない、というニュアンスからきていると感じる。たとえば、MIDIの打ち込みでいかに現実のバイオリンやエレキギターに近づけようとしても、その表現力は生音を録音したCDにはなかなか適わないものだ。過去、そういう音を作ろうとして難度も挫折した。

ボーカロイドというものが最近流行っている。アマチュアの作曲者でも、歌い手の人間を用意して録音せずとも合成歌声で歌を作って発表することができる。それがカラオケやCDになることも最近は稀ではないらしい。もちろん、ボーカロイド機械的(非人間的)な音声をあえてその特徴を活かして取り入れることで音楽とするのも一つの楽しみがある。しかしやはり、私たちは人間であるので、人間らしい声に感動するのは当たり前の話だと思う。途方も無い時間、遺伝子に刻まれているのでその事実は避けようがない。

とはいっても、合成音声で人間の生声に近づけることは、ギターやバイオリンと同じで困難を極める。しかし、「合成音声だからこの程度なのは仕方がない」という認識ではなく、精密な調整を行うことで人間の肉声をさらにこえた「正確さ」による美しさみたいなものを出せないのだろうか?と思う。機械的なものは無機質だが、あいまいさがないという完全性を持っている。人の声にいかに似せるか、ではなく、自分が表現しうる一番美しい歌声を作り出すことができるようになるのではないだろうか。

そういうわけで買ってみようかなあ。