最高のゲームで何かひっかかる

 カレーの辛さが選択できるように、結局、全ての人を満足させる最高のゲームなどありはしないのだ。

 それぞれのプレイヤーにはもちろんそれぞれの好みがあって、ハードゲーマーだったりぬるゲーマーだったり、雰囲気重視だったりゲーム性重視だったり、グラフィック重視だったり音楽重視だったり、多種多様だ。ある人にとって最高だと思うゲームでも、ある人にとっては糞ゲーかもしれないし、その逆もありうる。当たり前のことだ。

 では、個人、たとえば私が、とあるゲームを一番好きだと、一番面白いと思っていたとする。それで、クリエイターとして作りたいモノの最終目標はそのゲームなのかというと――どうもそうではない。これは人によりけりで、「私は**を最終的に作りたいんだ」と明確な目標を持っている人もいたと思う。

 「最終的に**を作りたいんだったら、**がもうある時点で作る意味無いじゃん、そこにはオリジナリティが無いよ」という意見もある。特定の批評人はこれを”パクり”とか”**の劣化ゲーム”とか言う。だが、もし元のゲームを知らない人が、その自作ゲームをプレイすれば、斬新で面白いと思うだろう。ここは美しい。

 公開は二の次で、作ることが楽しければよい、というクリエイターもいる。構築の楽しみはなかなか大きい。そんなのプレイヤー思いじゃない、という意見もあるが、作りたくて作るのは人の自由だ。これも美しい。

 だが私が何故ゲームを作るかと自分に問うと、何か中途半端だ。自分の頭の中に世界があって、それが完成したとき、何か得られる気がするのだ。制作に作業感があっても、ひたすらつくり、なんとかゴールまで行きたい。自分でテストプレイすると、不満な場所は無いとは思うが、今までプレイした最高のゲームより面白いかと言うときっとそうではない。完成品をプレイヤーにプレイしてもらいたいかというと、それはしてもらいたいが、絶対条件でもない気もする。何か使命のような、そんなものだと思う。

 何か結局もやっとしている。ゲーム作りの理由や楽しみ方でさえ、人それぞれなのだった。当たり前のことだ。

 ここからだ。昔と違ってネットワークは発達しました。これだけの違いがあるのだから、プレイヤー間では、やれここが面白い:やれここが糞だ、クリエイター間では、やれここはこうつくったほうが良い:やれここはこれを使ってはパクりだ、という意見のぶつかりあいが生じてもおかしくない。ぶつかることは別に悪くない。批評や討論とはそういうものだ。だが何がひっかかるかというと、その論争で腹を立てて、なんだとここは面白いに決まっているだろうそう感じないお前は人ならざる者か:なんだとこのやろう、といった風に発展し、しまいに人間関係に亀裂が入ったり自身が苦しんだりすることがたまにあるということだ。これは美しくない。

 自分たちはそうするのが楽しくて、ゲームをやったり作ったりしていると思う。確固たる信念を持てばそれで良いと思うし、それを無理やり人に押し付けることも無いと思う。このネットワーク世界では、なるほど、そう考えるか、という柔軟性が必要となってくるのだろう。個人的には、どんな糞ゲーと呼ばれるものにも、どんなゲームの作り方にも良い部分というのはあると思う。そこをいかに楽しんでいくか、それがゲームを活かす楽しみ方であり、イメージを活かす作り方であると思う。

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